「にわか」気動車ファン


東京堂のキハ25に続いて、キハ20+オプションパーツも入手し、必要な調色も一通り揃いましたw
知らなかったのですが、この当時の気動車の屋根色は「灰青色1号」(かいじょうしょく・いちごう)というらしく、確かに「ねずみ色」に青が入っているように見えます。

ちなみに画像の日光モデル調色は左から、旧一般色用(青3号と黄かっ色2号)、灰青色1号、朱色5号(これは首都圏色のたらこ色で、4号と間違って購入したもの)、新一般色用(クリーム4号とモリタ製朱色4号)、準急色用(クリーム色2号と赤2号)です。あと、赤11号が部分的に必要ですね。

奥の気動車群は、今回痛ましくもドナーとなられる方々です。この中にはワタシが23年前にNゲージ鉄道模型に復帰しようと試みた折に購入したものも混じっています。 合掌 ち〜ん


で、昭和35年頃はちょう気動車嫌いだったくせに、今頃になって、いっぱしの気動車ファンを気取っておりますw

当時5歳のワタシは、両親の実家のある舞鶴や福知山への里帰りの際、京都駅山陰線1番ホーム上において、めちゃくちゃにダダをこねておりました。

ワ「ぜ、ぜったいにヂーゼルにはのらへ〜ん!!!!」

親「なにいうてんの。そんなんに(隣の2番線の鈍行客車列車を指して)のってたら3時間もかかるんやで?」

姉「そやそや。顔まっくろになるの、ウチらいややし。あんた、一人であれにのったらええやん!」

ワ「わ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!!!!!」(この後しばらく無駄な抵抗するも、結局一人で乗る勇気なく、撃沈す)


つまり、当時は「準急丹後」(時間的に考えて第一丹後か)デビュー後間もなくの時期で、それまでは普通列車で行くのが必然だったこの家族の大部分にとっては、準急丹後のデビューは計り知れないほどのメリットがあったに違いありません。

3時間、というのは少々オーバーにしても、優に1時間は乗車時間を短縮でき、しかもこの姉の言うように顔や衣服が真っ黒になることもなく、途中のトンネル区間での窓の開け閉め作業も必要ないのです。

しかし残る5歳児にとっては、時短などくそくらえ、ちょっとでも長く乗ってたいのになんでやの?、顔のまっくろ関係ねえ。煙の匂い、だ〜い好き〜な訳ですから、ヂーゼル気動車)=キハ17やキハ20=憎っくき敵、になっていったのは当然の流れだったのでしょう。


で、


「磨いて万年」により、つるつるになったドナー車KATOキハ25の屋根。
KATOのオハネ12という大リーグ養成ギブス(古!)によって鍛えられた右手には、実に楽勝の感がありますwww

ここに例の、初期型ベンチレーターを装着しますが、当時の実車を見ると、この千鳥に振ったベンチレーターが、初期型では左右逆の並びになっているようですから、磨きは手が抜けません。

では宵山に出掛けます(ぷ