いよいよ、青大将特急引退から50年・・・

雑誌等々でこの話題が全く取り上げられていない(たぶん)のは寂しい限りではありますが、今月末日をもって、青大将特急が引退して50年という歳月が過ぎようとしています。

当時5歳児のワタシにとって、国鉄京都駅がこの世で一番好きな場所だったにも関わらず、正直言って青大将なるものの存在は全く知らず、憧れの的は常に東海道1番線に停車している「ピカピカのチョコレート色の、東京行きの急行客車列車」であったことは、このブログにも何度も書いてきました。

親の実家のある福知山や西舞鶴に帰省するために何度となく利用した山陰線は、皮肉にもこの憧れの1番線の遠く西の端っこに位置しており、そこへの移動中に、いやが上にも左側に停車する豪華列車が目に焼き付けられていったのでしょうが、これまた皮肉にも親が毎回同じ列車を選択するために、もっと時間帯の遅い青大将にはついぞ遭遇するチャンスがなかったのに違いありません。

実際に青大将なる特急が当時存在したことを認識したのは、鉄道及び鉄道模型を「趣味」として捉えるようになった中学時代で、すでに客車の一部はチョコレート色から青色に塗り替えが始まっていたものです。しかしながら、どうしてこのような一連の色の塗り替えが行われてきたのかという、今ではネットを検索すればただちに理解できるようなことが、当時は全く分らず仕舞いで、一時的に塗り替えられた青大将特急というものが、永くワタシの「ナゾ」で有り続けました。このことが今のワタシに「1960年5月末の国鉄京都駅」に固執させ続ける原動力になっていることは間違いありません。

前置きが長くなりましたが、それでは皆様から寄せられた作品の発表をさせて頂きますね〜♪


エントリー1:某あい模型店主「何と15年前に作っていたBトレ・ショーティーの青大将」

コメント:
当時(今から15年位前でしたか)老朽化したGMキット組み立て客車の更新の際に、手許にマイターボックスがあったのがすべての始まりでした。そのままウエイト兼用の鋳物の床下機器をプラ製に替えても、側面の形式番号の浮き彫りをペーパーで消し去ってインレタを貼り直しても、GMキット組み立ての我が客車達は当時のKATOや初代マイクロエースの製品に及ぶ筈も無く、さりとて廃車するには忍びなくと言う貧乏根性丸出しの動機により誕生しました。ざくざくと輪切りにして継ぎ目の修正もええ加減で、種車もその場にあった物を順番に手篭めにしただけでなんの計画も時代考証もありません。ただ、Bトレインショーティーという商品がこの世に出る前に製作したというのが売りの作品です。今回、青大将特急引退50周年記念といふ事で、皆様方の迷惑を顧みずに無理やりエントリー致しました。御笑覧下さい。