1956年 晩秋の京都駅の一日(その6)


梅小路機関区は、1914年(大正3年)に開設された、我が国でも有数の、歴史と栄光に満ちた機関区である。古くは1930年(昭和5年)、「超特急つばめ」名古屋―神戸間の受け持ちという栄誉ある仕業を得、このときは同区のC53型が大活躍をした。また最近では、1953年(昭和28年)からの、「特急かもめ」京都―広島間の受け持ちとなり、これは現在も続いている。さらについ先日、11月2日には、同区のC59−108号機が、大阪―米原間のお召列車の先頭に立つという栄誉を受けたばかりである。

東京―大阪間が完全電化されたとはいえ、大阪以西には姫路まで、大機関区が存在しないという理由で、京都以西の長距離列車には、まだまだ梅小路の蒸機の活躍が続くことだろう。
一方、姫路まで電化が完成したあかつき(予定では2年後の1958年)には、梅小路の蒸機基地としての機能は、一気に半減してしまうに違いない。

などと考えながら歩いていると、目前にもうもうたる煙が渦巻いている、機関区区域に到着した。機関区事務所で見学の手続きを済ませて、いよいよ機関車たちとの面会だ。
この時間帯は、長距離の仕業に出払ってしまっているカマが多いが、それでもいるわいるわ、ざっと30両近くまで数えることができた。ここのカマの特徴として、ランニングボード側面に、白い線を入れたものが多いことが挙げられる。名門機関区としての誇りの証しなのであろう。

1956年11月時点での、同区の蒸機の配置は合計65両で、その内訳は次の通りである。

8620型: 12両(主として京都―膳所間の、上り貨物の後補機仕業)
C50型: 11両(主として梅小路貨物駅の入換え仕業)
C51型: 7両(主として山陰線旅客列車仕業)
C59型:13両(主として東海道本線京都以西の旅客列車仕業)
C62型:13両(同上)
D51型:9両(主として京都近郊の貨物列車仕業)

C59型とC62型の運用上の使い分けは特には決まってないが、C59型のテンダ水槽容量が、C62型を上回っているため、暖房を必要とする冬場には、前者が仕業に就くことが多いという。

他に気動車として、キハ45000型が9両、最新鋭のキハ48000型が3両(近々、キハ10、キハ20などと短い名前に形式変更されるようだ)が、主として山陰線の旅客仕業に就いている。

それにしても、20線もの収容線を持つこの扇形機関庫の立派さといい、巨大なガントリークレーン方式の給炭設備といい、さすがは大都会の大動脈基地としての壮観な眺めである。
機関車の群れの中に、名機を発見した。C62−17号機だ。こいつはつい2年前、木曽川橋梁上において、時速129キロメートル毎時という、狭軌における蒸気機関車の世界記録を樹立した、名機中の名機なのだ。元名門・名古屋機関区の伝統である、赤地のナンバープレートが印象的である。また、扇形機関庫内には、先日のお召仕業を無事終えたばかりのC59−108号機が、まだ美しく磨き上げられたままの状態で、火を落としてひっそりと佇んでいる。そういえば、かつて、C53やC55の流線形なども、ここを一時の住処としていたことを思い出す。

機関車庫の後方には、山陰線の築堤が右に大きくカーブしながら続いており、ちょうどそこへ、C51型牽引の米子発上り普通列車が、左に傾きながら通過していく。もうそろそろ冬だというのに、全開に開け放たれた乗車扉からは、ひとりの少年がこちらを食い入るように見つめている。

機関区およびその周辺のレイアウトは、大規模な割にコンパクトにまとまっているが、問題点もある。
一番のネックは、梅小路貨物駅が東海道本線上よりも北方にずれて位置しているため、本線から進入する下り貨物列車は、上り旅客線と平面交差することになり、運用保安上の危険が付きまとっていることだ。

しかしながら、この特異な配置を生かして、特急かもめ号は京都駅と目と鼻の距離のところでデルタ線を活用して、列車全体の方向を変えることができるのである。(図の赤い矢印参照)ただ、このような方式自体がすでに前近代的であり、シートの改良等で早晩廃止されてしかるべきであろう。

ふと時計を見るとすでに午後の3時を回っているではないか。そろそろ駅に戻らないと、下りの「特急つばめ」を見逃してしまう。

つづく(そろそろマンネリかも・・・)